「先生!不自由という名の自由について」

人間、自由と不自由であればどちらを選択する?と問われると、ほとんどの人が自由を即答すると思われる。しかし、多少の不自由が自分の自由を拡張してくれると言うのもありえる話なのではなかろうか。たとえば法律。道路交通法なんかが分かりやすいかもしれない。自動車の運転にあらゆる制限を加える法律であり、少々不自由を感じてしまうモノである。しかしながら周囲の人間がそれを守ってくれるおかげで対向車とぶつかることをあんまり心配しなくて良い。だから自由にスピードも出せるってもんだ(違)
まぁ、多少の不自由を甘受することによって、別の自由を手に入れることが可能だったりするわけだ。なんでこういうことを考えたかというと、以下の記事を見つけたから。

コウノトリ 園内で放し飼いする装置開発 多摩動物公園
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050510-00000010-maip-soci

園内で放し飼い。現状のケージから比べれば多少の自由を手に入れたかもしれない。しかし、変な装置はつけられるし、結局の所、園外への飛行は許されているわけではない。多少の不自由と引き換えに手に入れられる自由としてはどうなんだろう。とか考えた。
保護し、自由を奪う。その代わり繁殖できるような環境と餌等が与えられ、外敵も寄せつけない。完全に楽園と呼べるようなセカイに閉じ込められる。それは幸せなんだろうか。でも、コウノトリからしてみれば、生まれたときから動物公園内にいて、それがセカイだと思っているのでは?そうなると、不自由も感じていないのかもしれないとも考える。逆に取り払われたケージと外敵に恐れをなしてしまうかもしれない。コウノトリの幸せはどこにあるんだろうか。
私も日本、アジア、地球と言う園内にくくり付けられているコウノトリなのかもしれない。