「先生!南Q太って誰よ?の巻」

○○○○の巻と書いて「○○○○んぉのまっき」と読むいえば、その昔カンテラで壁を照らしたり、畳をひっくり返しながら放送するアニメのタイトルを紹介していた忍者ハットリ君を思い出す。ついてこれるかい?皆?
って事で、定番の一井おんさんの定点観測だけど、今回は南Q太って人の本らしいぜ。・・・ってか、しらねぇよ。誰だよそれ?

南Q太の描く恋愛は「リアル」だとよく言われています。が、あまのじゃくのイチイはそれだけで終わらせたくありません。そもそも「リアル」=現実に近い、現実っぽいというニュアンスで使われている和製英語だと思うのですが、その現実は正確に言うと「どっかの誰かの現実」ではなくて、恋愛をしたことのある誰にとってもの「自分の現実」とシンクロするようなものだと思うのです。

どうやら調べると少女漫画からレディースコミックの中間あたりを漂う漫画家の漫画らしい。(へぇ。そりゃ知るはずがねぇや。)って事で、今回の定点観測は興味も減ったくれもなく。おわっちゃおうかなぁなんて思ってしまいました。
とはいえ、それもなんだかなぁ。なので、ちょっと一言寄せてみる。「リアル」という言葉の定義について「どっかの誰かの現実」では無く「自分の現実」とシンクロするものをそう言うんだ。と言っています。
まぁ、そうでしょう。そうだと思います。
何をもってリアルだと感じるか?というと自分の見聞き、体験した範囲での事象とほぼ同一もしくはそれを彷彿させる何かがあるからリアルだと感じるのだと思う。自分の想像できる範囲の出来事から逸脱せず、それが自分の近くのセカイで起きても受け止められる範囲で人間はリアルだと思うんだと思う。
だから「世界の中心で、愛をさけぶ」はまだありえる世界の話だけど「いま、あいにゆきます」はありえないファンタジーの世界の話だ。でもそれらよりもリアルなのは「電車男」なんだと思う。受け手が憧れや自省、自身のこれまでの体験やこれからの人生への期待を持ちながら見て、共感がある程度もてる。というところがリアルの境界線なんだと思う。
とはいえ、「リアルだ」と言っている事は厳密に言うと「現実ではない」ということの裏返しなのでどこまで行っても「リアルな」表現、内容は現実にはなり得ないのだろうが・・・。