「先生!アイデンティティの確立とかそう言う事」

いやはや、この一連の増田とか、この記事を読んでものすごいシンパシーを感じたのは俺だけなんだろうか。

スイーツ(笑)
http://anond.hatelabo.jp/20071211074925
あらかじめ失われた自己肯定の回復方法、または偽善者嫌いな人について
http://d.hatena.ne.jp/citron_908/20071211/p1

確かにバカをやれる時にバカをやってきていないよな。って言う若いころに出来なかった事の後悔っていうか、負い目っていうか、そう言うのって自分のなかでいつまでたっても消化し、昇華させる事ができなくて、いつまでもウジウジウジウジしちゃったり、先に進めなかったり、足が止まりやすい原因になってしまったりと、色々と問題があるんだなぁという気がする。んもぅ、この文章自体が読み手にとってはイライラさせる文章だって言うのは十二分に分かっているのだけれども、分かった上でさらに続きを書いてみる。
たとえば飲み会を例に挙げてみよう。飲み会の席などでも自分は楽しんでいる。楽しんでいると思っている自分を作っている。でも正直、酒を飲む*1という行為自体に意味を見いだしたことはこれまで一度も無い。味としておいしい飲み物がたまたまアルコールを含んでいるという事はあっても、それはアルコールを摂取する事ではなく、おいしい飲み物を飲むことが主体である。
そして、どれほど酒を飲んでも自分自身が酔ったな。と自覚することは無い。いや、三半規管・平衡感覚がチョット狂ってるなとか、眠いなと思う事から酔ったなと感じる事はあっても、正体をなくしたり行動が変わるほど飲んだことは一度も無い。だから、飲めるだけ飲んで大きな声で歌ったり、男女問わず抱き合ったり、キス魔になったり・・・というそう言う事が理解できないのである。正直、羨ましい。あれほど周囲を気にする事なく酔った醜態をさらけ出し、明るく笑うことが出来る彼ら・彼女らが羨ましくもある。厭味でなく本気で。
あの人たちはなぜ酔っぱらうと行動が大きくなるのだろうか?普段言えもしない事を言い、普段出来もしないことをする。何故?どうやって何処のタガを外せばそんな行動が出来るのか?不思議で仕方ない。自分の場合は何処まで飲んでも酔えない、冷静な自分が常に何処かにいる。だから酔った勢いで何かをするという事ができない。出来てたら良かったのに・・・と思うことも多々あるんだけど、何もできない。
友達が大声で肩を組んで歌っている。俺はそれを後ろから見ている。迷惑になるから静かにしよう。なんてつまらない、醒めたことを言っている。そんな自分がいやで仕方ない。なんで俺はあそこの輪の中に入っていけないのか・・・と。それでもやっぱり注意する側に回っている、どれだけ酔っても自分で作った規範の中から飛び出すことができないのである。
でも、そこでその人たちを見て軽蔑のまなざしを送り、醜態を晒して。と嘲り、自分自身が高尚な人間であるなんて言う方向に思考は決して向かわない。なぜあそこで俺はあんなふうな醒める様な事をいうのか、なぜあの輪の中に入っていけないのか。そっちの負い目を感じる方が圧倒的に多いのである。人はできないことにこそ憧れるという事だろうか・・・。
あと、チョット話は変わるが、先輩からの年賀状について。年賀状にはとある文面が書いてあったんだけど、それを全文載せるのは憚られるので、俺が読んだ時に受け取った感じを記載する。あくまでも受け取った感じであり、こう言う文章は一切書かれていない。だから、先輩の意図を思いっきり外しているかもしれない。でも、俺の読解力ではこう言う意味だった。

前を見ろ、立って歩け、自分の未来は自分で選択して行動して行くことで変わっていくのだ。そして過去とはそう言う行為のあと、自分の後ろにある不変なものなのだ。過去に拘泥しても仕方ない。自分自身で選んだ道を歩けばいいじゃないか。

正直、この意味を持つ文章を読んで泣いた理由は二つある。
一つは俺にもこんなに色々と気遣ってくれる先輩がいるという事に対する純粋な感謝とそのありがたさに胸に込み上げるものがあったから。
もう一つが問題なのだが・・・。もう一つの理由は先輩がここまで心配してくれて、こうして励ましてくれているのに何故自分はこれほどまでに立ち上がりが遅いのだろう。何故ここまで心配を掛けてしまうのだろう。という自分自身の情けなさに対してである。
そして逆の一方では、それほど簡単に自分自身を変えられない。いや、変えたくないと思っている向きもあるのではないかと思う。全てが全て同意するわけではない*2が、この人のこの一節には目を見開いてしまった。

たったひとつの冴えたやり方 ネットの片隅で愛を叫んだけもの
http://blogs.yahoo.co.jp/crystal_child_1976/3509479.html
忘れてしまえば楽になれるのに 簡単には忘れたくない自分がいる
彼女に受け入れてもらえなかった愛をぼくが忘れてしまったら
彼女を愛したことさえ幻のように消えて 無意味になってしまうのが嫌だった

そうだね・・・なんて。愛なんて大仰なものではなかった気がするけど。
でもね、こんなことを読んで共感を感じてしまう私は、結局誰でも無い自分自身が好きだったんじゃないか?なんて思ったりする。ただ、彼女を好きだった自分が好きだっただけではないか?そして俺はこれまでもこれからも他人を誰も好きになる事ができないのではないか?そんな思いすらしてくる。自分自身に自信がないのに、人を好きになれた事に意味を見いだしたかっただけなのではないか。なんてね・・・。
いつまでも思いを引きずっているのは、いつまでも忘れられないと思っている自分がかわいそうで、哀れで、そう言う自分をかわいそがる事で自分自身を慰めているからではないかと思ってしまうし、逆にそうではない。と強く感じてしまう。「ちがう、ちがう、ちがうっ!」って叫びたくなってしまう。
正直、こう言う考えをしている事自体が後ろ向きなのは分かってるんだけど、この後ろ向きな考えをなんで前向かせられないのかね?いやはや、ホントなんでこう言うネガティブな方向の思考ばっかりが達者なんだか。もっと前を向けばいいのにね。
で、こう言う事を言える場所はここか、遠く離れた友人でしかなく、徳島の身近に友達も何も居ない、作れないというのが自分自身の価値をさらに下げている気がしてくる。俺にはこう言うホンネを話せる友達が居ないのか・・・作れなかったのか・・・とね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・って、まぁこうやって徒然なるままに、色々意味もなく書いてみたら、チョットスッキリしたかも。うん、今日も元気にネガティブです。そして、明日も元気にネガティブなんだろう。あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーっっっ!

*1:アルコール分を摂取する

*2:特に他人を嘲る様な表現をする所は1ミリたりとも共感ができない。